あの悪魔の手に落ちてから一週間。
我ながらよく耐えていると思う。
「ちょっと、いい加減離れてください!」
私は隣でウジ虫よろしく払ってもくっついてくる会長を心底嫌そうに振り払った。
ここは図書館だ。例え何かの間違いで付き合っていることになっていようとも、ここは本を読んだり勉強をするところであってべたべたする所では断じてない。
「いやだ。志保は冷たい」
だが、そう云って当の本人は了承してくれないわけで。
ついてくると言ったのをやはり無理矢理止めておけばよかった…
「志保、何で付き合いはじめて一週間のカップルが休日を別々に過ごさないといけないのかな」
ま、また心読まれてるし…
そう、付き合い始めて私たちはやっと一週間だ。
あれからこっち、どうも会長は過剰にスキンシップをとりたがる。
本当、嫌がらせではないかと思うくらいに。校内でキスされかけた時はさすがに蹴りを入れてやった。
例えきっかけは騙されたような付き合い始めだとしても、曲がりなりにも少しは好意を持ったから現在も付き合っているわけだ。
だけどね、私からすれば初めての彼氏の存在なのよ、云ってみれば例え貧困と云われようが恋愛初心者なの。もう少しお手柔らかに頼みたい…
それに、今の私にはこれからを掛けた難問があるのよ。
「先輩、ですけど後二週間で期末テストなんですよ。先輩も勉強しないと…」
「テストなんて毎日勉強してればそんなに焦る必要ないよ」
私の必死の訴えも虚しく、目の前の御人はさも当然と云わんばかりにいって下さる。
えーえー、どうせしてないから焦ってるんですよ。
「わかりました、先輩はしなくてもいいです。でもこの手は離して下さい…見られてますから…」
私はそう云ってから先程から私の髪や手に触れてくる先輩の手をぱちんと軽く叩いた。
「見られて減るものでもないしいいよ」
えーえー、あなたは気にしないんでしょうけど私は気になるんですよ!
睨み付けてみても先輩はにこにこと笑っているだけだ。
先輩はきっと私のこんな反応すら面白がっているんだろう。
今も結局この人のペースにつられて相手にしてしまっている。
やはりいつまでたってもこの人の方が上手なのだ。
だが、私もこればかりは譲れない。
一つため息ついて、気持ちを落ち着けてから先輩と目を合わす。
恥を忍んで云うんだからちゃんと聞いてよね?
「先輩、私ほんとにテストやばいんです…」
ああ、目がちょっと潤んできた…云っとくけど演技じゃないからね。
ほんとにそれくらいやばいの、わかって。
私の必死の懇願はさすがに目の前の人にも届いたらしく、少し離れてくれた。
そして、先程まで私が向かっていたノートに目を落とす。
「……。」
妙な間が痛いです…大体何考えてるか分かるけどさ…
「数学苦手なんですよ…」
雰囲気に耐えられないのと恥ずかしさで何か云われる前に目を逸らして口を開いた。
「…これはそうみたいだね」
さすがの彼も呆れているのか眉を寄せている。
それもそうだろう。
例え邪魔されていたとしてもここに来て30分経ってノートが一行目から進んでないのだから。
まあ、これでわかってくれただろうと先輩を見ると、彼は何か考えたように頷いて口を開いた。
「前回もこんな感じ?」
前回とは一学期の中間テストのことだ。
「ええ、まあ…」
「何点足りないの?」
この何点とは中間で取った点数が欠点である60点にいくら足りなかったかということだ。
うちの学校は中間で赤点をとってもそこですぐ補習になったり課題が出たりはしない。
その代わり、60点未満の者は期末テストと足して平均60点をクリアしなければ、長期休みの半分を補講にあてられることになっているらしい。
云い方を変えるといくら中間で60点をクリアしてても期末で落としたら補講ということだ。
それで私はというと、はっきりいってかなり足りない。
「23点…」
先輩は瞬時に私の中間の点数を叩き出したことだろう。
中間の点数は37点だ。はっきりいって悲惨だった。見たとき泣いたくらいだ。
だからこそ今回は大変なのだ。
何せ中間の失点の23点をクリアするには今回83点以上とらないといけないのだから。
「83点か…でもこのままだと…」
わかってるわよ!わかっていますとも!
いくら期末の2週間前とはいえ、今から始めたって数学みたいな積み重ねのは中間で分からなかった基礎からやってかなきゃ出来ないのよ…
でもやるしかないじゃない。
気持ちを落ち込ますようなこと云わないでよ…
「数学、教えてあげようか?」
落ち込みかけた矢先、いきなりの魅力的な提案に思わず顔を上げてしまった。
素直に頷こうとしていたのを何とか止める。
だって相手はあの性悪会長なんだもん、裏がないとは云いきれないじゃない。
その笑顔の裏で何を考えているか計り知れないもん。
「もちろんその報酬は後で貰うとして」
ほら来た、来たよ
「い、いいです、自分で頑張ります」
「難しいと思うよ?」
「う…」
「他の教科は大丈夫なんだよね?」
「それはまぁ…」
「夏休み、学校行きたい?志保が行くなら俺も行こうかな」
「…教えてください」
弱虫とでも何とでも云ってください。
背に腹は変えられないんです。
大嫌いな数学を夏休みまで受けるのはすっごく苦痛だし、何より最後のあの言葉。
この人絶対毎日くるよ…
目の前の相手が決して冗談でいっていないことくらい付き合いの浅い私だって分かる。
きっと毎日毎日おしかけてくるんだ…
「素直が一番だね」
にこっと目の前で笑うこの綺麗な顔も、私には悪魔の微笑みとしか思えない… やっぱり付き合い早まったかも…
「ほう〜それで会長が直々に教えてくれるんだ?」
「なんかそういう事になったみたい」
「あんたねえ、あの会長が直々に、よ。他の子が聞いたら今のその反応で瞬殺だわよ」
早紀が呆れたように私を見た。
そりゃ、善意で会長が教えてくれるなら私だって喜ぶわよ。でも、絶対それだけじゃないもん。
いくら私だってちょっとは学習するんだから。…相変わらず負けてるけど。
「でもよかったね、志保ちゃん。会長なら頭良いし、きっと夏休みも遊べるね」
会長の思惑なんか知らないだろう優美は、素直に善意と取っているらしい。
「遊べるかなぁ…」
私はついついぼやいてしまう。
いくら会長が教えてくれるとはいっても、いまいち信じきれないんだよね。
結局昨日だってあれからすぐに図書館出さされて買い物に付き合わされたし。
買い物自体は楽しかったからいいんだけどさ。
「ま、がんばんなさいよ」
早紀はそう云ってぽんっと肩に手をおいた。
「人事だと思って…」
「だって人事だもん」
はいはい、どうせ貴方は中間でもクラス3位以内に入っていたようだし余裕でしょうよ!
「私はそれなりに勉強してるのよ。てかそれより生徒会室行くんでしょ?さっさと行きなさいよ」
そう云って早紀はあしらうように手でシッシと追い払ってきた。
「行ってきます…」
気乗りのしない状態で、カバンに荷物を詰め込んで私は教室を出た。
会長が勉強場所にしてきたのは予想外にも生徒会室だった。
てっきり図書室だろうと思っていたけど、そこだとまわりの目が気になるから、生徒会室を提供してくれるという申し出はありがたい。
でもいいのかなぁ、部外者の私がお邪魔して。
生徒会室は本館とは別棟にあって、普段は用もないからあまりこない校舎の端だった。
本館より後に作られたここは、比較的新しくて綺麗だ。
生徒会室…ここだ。
部屋を前にして、妙に緊張してしまう。
一回深呼吸して覚悟を決めてノックした。
人通りの少ない廊下に響いた気がして落ち着かない。
ちょっとして、がチャッと扉が開かれた。
てっきり会長が出てきてくれると思っていたのに、そこに現われたのは会長とは違った人だった。
顔は見たことある。確か副会長の高屋蒼斗先輩…
思わず硬直してしまった。
「初めまして」
先に口を開いてくれたのは先輩の方だった。
温和そうな優しい表情に笑顔がとても良く似合う。
彼もこの学園では会長と並ぶくらい有名でファンも多い。
銀縁のフレームが良く似合う。私は会長よりこういう人を好青年と云うんだと思う。
そこで気付いたけど、思わず見とれてしまってあいさつが遅れてしまった。
「す、すみません、初めまして。あの、会長は…」
そう尋ねると、くすくすと笑ってみせて、すっと中に促してくれた。奥の机には会長が居て、座って待っていたらしい。
「蒼、これで満足しただろ?帰れよ」
いつもよりちょっとむすっとした様子の会長が、高屋先輩を睨んでる。
高屋先輩も特別気にした風もなく、はいはいと笑いながら対応していた。
訳が分からない私は思わず二人を交互に見てしまう。
「ごめんね、僕が拓也に無理矢理君を見せて欲しいって頼んだんだ。拓也の眼鏡をあっさり外させて煙草まで止めさせてしまった君をさ」
「あの…?」
こんな綺麗な男の人にまじまじと見られて恥ずかしいのと、どう返せばいいのか分からないから、私は尚も言葉に詰まってしまう。
眼鏡…そういえば前は掛けてたよね。最近見なかったけどそれが私と何の関係が?
尋ねようか尋ねまいか迷っていると、先に会長が口を開いた。
「蒼」
余計なことは云うなと云わんばかりの重低音だ。それにしても、会長がこうやって感情出してるなんて珍しい。
「はいはい。じゃあ僕は退散するよ。テスト前は生徒会も基本的に動かないしゆっくりしていってね」
最後の方を私に向けて彼は去っていった。
「…」
なんか、妙に間がぁ…
私は居心地悪くてきょろきょろと部屋を見てしまう。
会長の大きな机の周りに職員室みたいに多分他のメンバーの分も机があって、そこにはそれぞれパソコンがある。さすが私立なだけあるわと妙に感心してしまった。
「志保、こっち」
会長が私を呼んだから近寄ると、会長の机のトコに椅子がもう一脚用意されていた。
多分、そこに座れと云うことだろうから腰を降ろす。
先程から口数の少ない会長をちらっと見ると、彼は盛大にため息をついた。
「ど、どうしたんですか?」
「いや、蒼、やっぱり紹介するんじゃなかったと思って」
「どうしてですか?」
「余計なこと喋るから」
「余計なこと…?ああ、会長が眼鏡掛けなくなったとか云ってたことですか?」
ついうっかり核心に触れてしまったようで、云ってから後悔する。
「い、いえ、無理に聞きたいわけじゃないですから…。それより、高屋先輩も会長の本性知ってるんですね」
「志保、本性って人聞きの悪い…」
「だってそうじゃないですか」
「…まあ、蒼ってか生徒会のメンバーの前だと俺は大体いつもどおりだから」
「そうですよね、普段から作ってたらストレスで化けの皮も剥がれやすくなりますもんね」
うんうんと私が一人納得していると、横から嫌なオーラが…
「志保」
ひぃっ。恐いから笑顔で言い切り止めてくださいっ
なんで私の口はこうも次から次に地雷を踏んでしまうかな…
「せ、先輩!勉強しましょうよ!時間もったいないです!」
あわててカバンから数学の教科書とノートを取り出す。
先輩はまだ何かいいたそうだったけど、当初の目的を覚えてくれていたのか、勉強モードに切り替えてくれた。
よかった、一先ず本当に教えてくれる気はあるらしい。